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「名将・原辰徳への感謝の言葉」9月11日vsヤクルトゲームレポート特別版

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今回は特別版として「イニング経過、雑感」は省略し、巨人歴代最多勝監督となった原辰徳の功績を称える内容にします。

【ゲームスコア】
ヤクルト 100 000 000 1
巨  人 000 010 01X 2
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勝利投手 巨人 中川 (2勝1敗5S)
敗戦投手 ヤクルト 清水 (0勝4敗0S)
セーブ  巨人 デラロサ (1勝0敗11S)
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本塁打
ヤクルト 山田哲 8号(1回表ソロ)
巨人 坂本 15号(8回裏ソロ)
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【巨人選手評価】◎最高評価選手 〇高評価選手
◎坂本勇人
原監督の記念日にまたもや愛弟子が花を添えた。
前打者の重信がかすりもしなかった清水のストレートを、一発で仕留める彼の底知れない技術と集中力には脱帽である。

〇戸郷翔征
前回登板と同様に決して本調子とは思えなかったが、そんな中でもしっかり結果を残せる事が出来た事は収穫だった。
次回以降の宿題としては、まだまだ無駄な四球が多いので、そこを改善してもっと球数を抑えていきたい。

〇吉川尚輝
それまでスアレスに対して全くタイミングが合っていなかったが、同点タイムリーの場面は、エンドランが出た事によって邪念が捨てられて素直にカーブを捉える事が出来たと思う。
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【技術的に気になった巨人選手】
※岡本和真
やっぱり「打ちたい」という気持ちが先行してしまって、ボールを追っかけてしまっている。
やっぱり二冠のタイトルは欲しんだよなぁ。。。
そうだよね。。。絶好のチャンスだもんなぁ。。。。
その気持ちは痛いほど分かるが、ここは何度も同じことをいうが「急がば回れ」の精神で、引っ張りの意識をグッと抑えて、右中間に強い打球を放つつもりで打席に立って欲しい。

※炭谷銀仁朗
バッティングを完全に崩している。
身体が早く開いてしまうので、感覚よりもバットのヘッドがなかなか出て来ていないし、低めに変化球を落とされると体が前に出されてバットが止まらない。
大城の成長で炭谷のスタメンマスクを疑問視するファンも増えてきているので、ここは是非とも踏ん張って欲しい。
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【特別コラム】
※「名将・原辰徳への感謝の言葉」
昭和50年代前半、私は小学校高学年になり、ようやく少年野球チームへの入団を許された頃、私のアイドルであり目標は王貞治だった。
まあ、年齢的に長嶋茂雄のプレーはぶっちゃけ記憶が殆どないし、巨人ファンというよりは「王貞治のファン」という言い方の方が正しかったかもしれない。
それだけ、王貞治という野球選手は私にとっては絶対的な存在だった。
しかし、その別れは意外と早い時期にやってきた。。。。
「王貞治のバッティングが出来なくなった」
突然の引退会見で語った最後の一言にはホント驚き、そして悲しんだ。。。
その王貞治が引退し、ほぼ同時期に長嶋茂雄も監督を電撃解任され、長嶋ファンだった兄と王貞治ファンだった私の巨人への失望感はハンパなかった。。
そして、そんな暗い雰囲気の中で行われたのが、あの運命のドラフト会議だった。
「原辰徳! 読売!」
パリーグ広報部長の伊東一雄(後のパンチョ伊東)の独特の甲高い声が響いた瞬間を今でもはっきり覚えている。
しかし。。。嬉しかったなぁ・・・。
当時、数少ない野球専門番組の「プロ野球ニュース」と「ミユキ野球教室」、そして様々なスポーツを報じてくれていた「独占スポーツ情報」で、「原辰徳の凄さ」「甲子園、そして神宮のアイドル」「長嶋茂雄の再来」とまで絶賛されていた学生野球の大スターの入団交渉権を、我が巨人が獲得したのだ。
その時の私は天にも登る気分だった。。。。
近年の致命的に無い「くじ運」からすれば、原辰徳と松井秀喜ともに四球団の競合の上で引き当てた事は奇跡に近い。
今となっては両人ともに巨人に入る運命だったと言えるが。。。
こうして王と長嶋が巨人を去って(王は助監督として残留)、今度は原辰徳がやってくる。
彼の入団をキッカケに、私は巨人軍というチームに本格的にのめり込んでいった。
そして両親に頼んで報知新聞(現スポーツ報知)の定期購読も始まった。。。
 その原辰徳がルーキーとして開幕戦を迎えるころ、私も中学に入学し、本格的に野球に取り組み、モノの分別も付くようになっていたので、野球観もこのころから徐々に形成されてきた。
すると、時がたつにつれて四番・原辰徳は正直言って物足りなさを感じるようになっていた。。。。
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 勿論、原辰徳の野球選手としての成績は、スター選手として相応しいモノ(通算本塁打は当時の歴代14位の382本)を残していたし、現在のようにセイバーの数字で判断すれば、今の岡本和真よりも数字は上なので、今となっては自分が過小評価していた事を恥じるほかない。
恐らく、私よりも一世代下のGファンにとっては間違いなくスーパースターだったんだと思う。。。
しかし、あの「最後のひと華を咲かせた頃の王貞治」を見てきた私の世代や「V9のON」を知る私よりも上の世代からすれば、やっぱり四番・原辰徳は物足りなかった。
また、当時のスーパースターだった掛布や山本浩と比べられたことも彼にとっては気の毒だった。
このように「選手として素晴らしい実績を残した」にも関わらず、物足りなさを感じてしまった最大の要因は、獲得した主要打撃タイトルが一度の打点王のみだった事が大きかった。
しかし、それについては原が心技体全てで充実期を迎える筈だった選手時代中期に、試合中に手首の故障した事がホント気の毒だったし、ここである意味成長が止まってしまった。。。
そして、この故障で原は選手としてのピークを迎える前に体力が衰え始めてしまう(その後、数々の故障に悩まされる)
こうなってしまうと首脳陣の評価はどうしても下がるので、選手時代の後半はサードのポジションをはく奪されたり、落合の加入で控えにまわされたりして苦汁を舐めることも少なくなかった。
しかし、この苦しみこそが後々の監督としての大きな財産になったと思う。
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 原辰徳は現役中に三人の指揮官の元でプレーした。
藤田元司、王貞治、そして長嶋茂雄。
全くタイプが異なるこの三人の指揮官から、彼は様々な事を吸収していったと思う。
藤田からは「社会人・野球人としての立ち居振る舞い」王からは「ジャイアンツのプライド」長嶋からは「スーパースターのカリスマ性」
ざっくり言えば、これらの事を原辰徳なりに自分のモノにしていったと思う。
又、監督として当時賛否分かれた大スター監督の王と長嶋が、大なり小なり失敗していた過程も、選手やコーチとして間近で見ていた彼には良い反面教師だったと思う。
そして、もう一つ原辰徳を語る上で触れなくてはならないのが、その行動力から生まれる社交性だと思う。
これについては筆者が野球界と関わりをもっていた頃に、何度も政財界の大物との繋がりを耳にしていたし、実際に現場を見た事もある。
そのコネクションは星野仙一と同レベル、もしかしたら上だったかも。。。。
彼はこうした大物との対面で、野球人に留まらず人間としての器を大きくしていき、類まれなモチベータ―としての資質とその発信力、大局的な視点でモノを捉える洞察力と戦術眼などを徐々に身に着けていったと思う。
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 そんな原辰徳が2002年から二年間、2006年から十年間、そして2019年から今日まで、合計で14年間にわたって巨人の監督として指揮を執っている。
選手として残した実績、巨人の四番打者としても、ONに遠く及ばなかったが、巨人の監督としてはONを越え、オールド巨人ファンのアイデンティティーである「V9」を成し遂げた川上哲治の通算勝利数を超えた。
間違いなく引退セレモニーで語った「私の夢には続きがあります」の夢は実現したと思う。
しかし、それでも原辰徳はこれからも夢を追い求め続けていくと思う。
終着点はないのかもしれないが、まだまだ野球人・原辰徳の情熱は衰えていない。
そして、そんな永遠の若大将の姿を私たち巨人ファンもずっと、ずっと、ずっと。。出来る事なら。。。ずっと見続けていきたい。
彼は老若男女問わず、全ての巨人ファンにとっては唯一無二の名監督であり、今やONと並び称されても決しておかしくない「レジェンド」なんだから。。。

以上 敬称略
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